こんばんは、花雨。です。
今日は社会的にナイーヴな内容の日記になります。
わたしには悪気がなくても、ひとによっては苦手だったり嫌なきもちになったりする表現があるかもしれません。
そういった方々は読むことをすぐにやめて、なにか他の楽しい嬉しいことをしてみてください。
日記自体は数日前に書いたものをブログ用に内容を整理して、書きます。
内容は、差別とはなんだろうというわたしの素朴な疑問から始まります。
そう、わたしが考えた場所がヌプㇽという登別市の観光交流センターという場所です。
そこはJR登別駅の近くで観光客も近隣の町の人びとも賑わう楽しい場所です!
みなさま、ぜひふらりと訪れてみてください。
ヌプㇽというさまざまな言語が飛び交う場所だったからこそ、わたしは差別とはどういったことなのだろうかとふと考えてしまったのだと思います。
よろしくお願い致します。
こんにちは、花雨。です。
みなさまはどう感じどう思われますか。
ヌプㇽには食べ物の各お店の他に、どなたでもお休みできる広いスペースの休憩所、市役所の支所、観光案内所、登別ゆかりの商品が置いてある小さなお土産屋ブースがあります。
楽しい場所ですので駅の待ち時間や観光の束の間の休憩時間などありましたら訪れてみてください。
では今日はこのあたりで。
また会いましょう!
おやすみなさい。
今日は社会的にナイーヴな内容の日記になります。
わたしには悪気がなくても、ひとによっては苦手だったり嫌なきもちになったりする表現があるかもしれません。
そういった方々は読むことをすぐにやめて、なにか他の楽しい嬉しいことをしてみてください。
日記自体は数日前に書いたものをブログ用に内容を整理して、書きます。
内容は、差別とはなんだろうというわたしの素朴な疑問から始まります。
そう、わたしが考えた場所がヌプㇽという登別市の観光交流センターという場所です。
そこはJR登別駅の近くで観光客も近隣の町の人びとも賑わう楽しい場所です!
みなさま、ぜひふらりと訪れてみてください。
ヌプㇽというさまざまな言語が飛び交う場所だったからこそ、わたしは差別とはどういったことなのだろうかとふと考えてしまったのだと思います。
よろしくお願い致します。
こんにちは、花雨。です。
今日は髪を切りに登別方面へ行きました。
電車待ちでヌプㇽという観光交流センターへ行き、各お店でかぼちゃのジェラートやアップルカスタードパイを美味しくいただき、温かいコーヒーを飲んで施設内で休憩を取りました。
ヌプㇽはアイヌ語で色の濃いという意味で、先住民族であるアイヌ民族の展示や説明なども施設内で紹介されています。
時間がかなりあったためアイヌ民族を支援し広報する団体の、組織構造を説明してくれる冊子をわたしは読みました。
置かれていたその冊子をぱらぱらと読んでいて差別とはなんだろうとなんとなく考えてしまいました。
(その冊子はアイヌ民族のアイデンティティや文化について詳細に語る性質の本ではそもそもなく、アイヌ民族を組織的に支援する団体の構造を事実的に説明してくれる本でした。アイヌ民族のアイデンティティや文化についての本格的な説明はウポポイなどに託されているのだろうとわたしは予想しました)
(その冊子はアイヌ民族のアイデンティティや文化について詳細に語る性質の本ではそもそもなく、アイヌ民族を組織的に支援する団体の構造を事実的に説明してくれる本でした。アイヌ民族のアイデンティティや文化についての本格的な説明はウポポイなどに託されているのだろうとわたしは予想しました)
差別とはなんでしょうか。
差別というものは、皆に与えられる機会からの排除、マイナスイメージの強制的な付与だとわたしは思います。
だけれど、いきなり最初から相手に対して激しい差別がなされるのだろうかと疑問がふと湧きました。
だけれど、いきなり最初から相手に対して激しい差別がなされるのだろうかと疑問がふと湧きました。
相手を知らない、関心があまりない段階だからこそ、無意識にされるちょっとした自分自身の行いが、相手のアイデンティティや文化からすれば我慢はできるけど哀しい、なんだか怒りが湧くというじわじわと蝕むような場面があるのかなとわたしは思います。
わたしはそれが差別の始まりのように感じるのです。
ただ、相手を知らない、関心があまりないという状況は誰にでもあることと思います。
性、年齢、容姿、国、民族、職業、障害などの分野で特に。
先住民族のアイヌ民族に限らず、それぞれの分野でわたしは知らないことはいっぱいあります。
他者から聞かれてもとっさに上手く説明できないことが多々あるのです。
つまり差別をしやすい状況にわたしは、今いるのだと思います。
悪意のある差別というものが、この世界にたくさん生じていることは知識としてなんとなく理解ります。
ただ、悪気のない差別というものはもっとわたしの身近に巣食うように存在するような気がしています。
よくそのものの立場を知らないのに(関心を持ち知ろうとしていないのに)あれこれはこういうものだ、それはこのようなものだと自分自身の価値観だけで判断を片付けて、その判断にいろんな人々の価値観が反映されていないという状態は、日常、わたしはめずらしいことではないと感じます。
だからこそ、その差別の始まりは誰にとっても無関係ではないのかなともわたしは思うのです。
遠い隣町の他者なら鷹揚に許せることが身内だと簡単に判断が変わったり、逆に自分自身に近しい分類の人々に理解は示すけれどあまりにかけ離れている人びとにはその人びとの立場を無視ができてしまったり、このようなことはありふれた日常の一コマでありながら差別の始まりなのかなとぼやっと思います。
SDGsの時代だけれど、わたしは自分自身が今までもこれからも胸を張って誰も差別はしていないとは、言えません。
なにも知らないからです。
積極的に差別はしたくはないのです、ですが他者から見たならわたしが誰かを差別している可能性はあると思っています。
差別の始まりは自分自身の状態とも関連はあると個人的に感じます。
自分自身が切羽詰まっている状態であるのに優遇される人びとを目の当たりにして何も言わないで通り過ぎることができる人間は日本も外国も、歴史的な流れを見て多数ではないと感じます。
なにか悪い状態に自分自身が陥ったとき自分自身ではない、なにかのせいにしたい性質を、そもそももつものが人間なのだと感じることがわたしにはあります。
ただ、個人的にずっと思っていることがあるのです。
人間は差別をする対象に自分自身がなることがあります。
時代による国の情勢は波がある。
恋愛をしたひとが本当はどのような性的指向の持ち主なのかということや民族的なアイデンティティの持ち主であるのかという可能性、生きていれば年齢は重なり容姿は誰でも衰えるし、誰かが何かを担っているからバランスがとれてその働き手は存在するし、生老病死からは誰も逃れられない人生です。
そういったことを想像していくと自分が差別していたひとの立場が自分自身の立場だったということがありえる可能性だと理解ります。
自分自身の無知は自分自身の人生に返ってくる。
わたしは個人的にそう考えています。
差別するものは差別されるという状況はありえます。
そして、差別するものは誰か他者だとは限らず、自分の差別の価値観により自分自身の人生が差別されるとわたしは感じています。
差別というものが合理的ではなく違法であり、他者の人生を容易く変えてしまう行動であるということを自分自身の身に沁みているひとと、そうではないひとはやはり差があるような気が、わたしはしてしまうのです。
アイヌ民族を支援する組織の冊子をぱらぱらと読んでみてわたしが思ったことは、アイヌ民族を支援する彼らはアイヌ民族を差別なく保全しようとしている存在でありアイヌ民族を知っている人びとなのだという事実と、登別という町を知りながらアイヌ民族の言葉、文化、信仰、歴史を他者から聞かれてもわたしは日本人として説明ができないという、その事実との対比です。
この対比は影が深いと思います。
差別の始まり、第一歩になってしまっているのではないかとわたしはふと感じてしまいました。
これは先住民族のアイヌ民族だけの課題に限らず、繰り返すようだけれど、さまざまな分野のそこここに差別の始まりはあるのではないかとわたしは思っています。
ヌプㇽはいろいろな意味合いで中継地点なのだと思います。
アイヌ民族について、観光について、登別という町について、歴史と文化が交わりその先、自分自身が知りたいことや体験したいことへ向けて背中を少しだけ押してくれる中継地点。
ヌプㇽにてさまざまな言語が飛び交うなか、どこかへ行く先がある人びとが一時安らかに過ごす場所でアイヌ民族を支援する組織の冊子をめくって、差別ってなんだろうと首をひねったわたしは、ヌプㇽは、やっぱりおもしろい場所だと感じています。
今日は社会的にナイーヴな内容でわたし自身、書くかどうか迷いましたが差別という言葉について自分なりに考えをめぐらせてみました。みなさまはどう感じどう思われますか。
ヌプㇽには食べ物の各お店の他に、どなたでもお休みできる広いスペースの休憩所、市役所の支所、観光案内所、登別ゆかりの商品が置いてある小さなお土産屋ブースがあります。
楽しい場所ですので駅の待ち時間や観光の束の間の休憩時間などありましたら訪れてみてください。
では今日はこのあたりで。
また会いましょう!
おやすみなさい。
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