こんばんは。花雨。です。
今日はわたしなりの他者の死の、噛み砕きかたをお伝えさせてください。
いきものが死ぬと鮮やかな命の音が止みかわりに不在の音が地上に鳴り響く気がわたしはします。
不在の音は圧倒的に空白ですが周りの人びとならではの喜怒哀楽、その祭りのような騒々しさを渦のごとく吸い込むスポットとして、不在の音は地上に存在感をあらわしているとわたしは思っているのです。
死んだあとそのいきものの存在は朽ちて世界の目には見えないことが現代の常識のひとつです。
それでももう二度とその存在はありのままの姿を見せないけれども、圧倒的なそのものの不在をとおして周りの人びとは波立たせられます。
その波こそ、不在の音の証明でありなくてはならないいきものが消失してしまった深い哀しさだとわたしは感じます。
人は皆死んでしまうのですが、そのひとの存在感というものはなかなかのこされた周りの生きる人びとにとって消すことが難しいのでは、とわたしは思うのです。
不在の音の響きの広がりは生前のそのひととのこされた周りの人びとの存在感のつながり、絆のひと種類だとも思います。
誕生したときから人間は存在感を命から放ちます。
わたしはそのことに畏れと不思議さを覚えます。
ひとは死んだらどうなるのかはわたしにはわかりません。
ただ、死んだらそれで全て終わりという事実については無味乾燥な思いを個人的には抱いてしまいます。
ひとりぽっちで死んでも皆に看取られながら死んでも、それが人間でもペットや動物でも。
現代は誰かや何かと存在感ですでに繋がってしまっている世界なのかもしれません。
そのことが良いことか悪いことなのかはわたしにはまだ不勉強なためわからないことが多いのですが、不在の音広がる響きを無視はできないとわたしは感じることも確かです。
みなさまは自分自身の死や他者の死についてお考えになることはありますでしょうか。
わたしは死はまだわかりませんが、不在という胸に冷たい圧倒的な存在感、今まで生きているものが本当に事実として消失するという重さの深さはこれからも忘れたくはないのです。
みなさまは今日はどんなとうめい。を見つけましたか。
ではまた、この世界でお会いしましょう。
今日はわたしなりの他者の死の、噛み砕きかたをお伝えさせてください。
いきものが死ぬと鮮やかな命の音が止みかわりに不在の音が地上に鳴り響く気がわたしはします。
不在の音は圧倒的に空白ですが周りの人びとならではの喜怒哀楽、その祭りのような騒々しさを渦のごとく吸い込むスポットとして、不在の音は地上に存在感をあらわしているとわたしは思っているのです。
死んだあとそのいきものの存在は朽ちて世界の目には見えないことが現代の常識のひとつです。
それでももう二度とその存在はありのままの姿を見せないけれども、圧倒的なそのものの不在をとおして周りの人びとは波立たせられます。
その波こそ、不在の音の証明でありなくてはならないいきものが消失してしまった深い哀しさだとわたしは感じます。
人は皆死んでしまうのですが、そのひとの存在感というものはなかなかのこされた周りの生きる人びとにとって消すことが難しいのでは、とわたしは思うのです。
不在の音の響きの広がりは生前のそのひととのこされた周りの人びとの存在感のつながり、絆のひと種類だとも思います。
誕生したときから人間は存在感を命から放ちます。
わたしはそのことに畏れと不思議さを覚えます。
ひとは死んだらどうなるのかはわたしにはわかりません。
ただ、死んだらそれで全て終わりという事実については無味乾燥な思いを個人的には抱いてしまいます。
ひとりぽっちで死んでも皆に看取られながら死んでも、それが人間でもペットや動物でも。
現代は誰かや何かと存在感ですでに繋がってしまっている世界なのかもしれません。
そのことが良いことか悪いことなのかはわたしにはまだ不勉強なためわからないことが多いのですが、不在の音広がる響きを無視はできないとわたしは感じることも確かです。
みなさまは自分自身の死や他者の死についてお考えになることはありますでしょうか。
わたしは死はまだわかりませんが、不在という胸に冷たい圧倒的な存在感、今まで生きているものが本当に事実として消失するという重さの深さはこれからも忘れたくはないのです。
みなさまは今日はどんなとうめい。を見つけましたか。
ではまた、この世界でお会いしましょう。
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